2012年6月16日土曜日

最高裁判決-その2

頭が冷えてきたので、昨日久々に書いたものの続きを少し書くことに。マンガの所持が児童ポルノにあたるとして起訴されスウェーデンの最高裁まで争われた事案。空想か実在か、みたいな議論もあるわけで、このあたりのところは正直自分の現在の関心分野ではなかったので、はしょっておりました。最高裁が判決とは別にコメントも出していて、それが非常に端的なのでそれをそのまま挙げることにします。

判決においては、描写それ自体はポルノグラフィでありまた児童を描写しているものと認定された。しかしながら、それらは現実の児童と混同され得ない空想上の存在に関してのものである。描写の所持を処罰することはそれ故に、表現の自由及び情報享受の自由の制限を導いた主たる目的にとっての必要不可欠性を逸脱するものである(いわゆる比較衡量論)。憲法の定めうるところに従った当該法律の解釈により、本起訴は却下された。[参照]

この一文を考えると、昨日のさらっと読んで書いたものは、部分的には日本のガチガチした憲法解釈からから見た感覚的なものなのかもしれません。(日本でいうところの厳格な合理性の基準に近い)比較衡量は確かにしてるけれども、主観的な権利として認められるかが論じられていて、あんまり抽象的な所をコネコネとしてない状態。法律やその目的自体の合理性を審査をする必要がなければ、そこにぶっとんで行く必要は本来必要ないのかも。自分スウェーデンでこのあたりはやってないので、機会があればという感じ。直感は大切なので、書いたものは、とりあえずそのまま取っておくことにしましょう。

判決も触れている通り、結局の所、ポルノグラフィと児童ポルノグラフィをあえて分ける場合、未成年者というところに刑法上の特別な保護利益があります。そして未成年者のように意志や決定能力が完全ではない場合、本人や親権者の同意をもってしてもその同意能力を安易に認めるべきではありません。しかしながら、そこのところからぶっ飛んで犯罪に利用される恐れとか、1つの描写が全ての未成年者に被害を及ぼす、といったところまで保護利益として認めるとなると、およそ道徳的判断と区別のつかない連関というか良く分からない論理を刑法の世界に持ち込むことになります。まぁこの辺はもっときちんと書いてる人も多いし、危ないよね、というところでここは止めておきましょう。

それよりも実際の被害をどうにかせい、という問題はあります。事件として処理するにもリソースが不足している上に、警察や検察、司法のやる気のなさ、それに対する不信感に伴う被害の無申告やら何やらで結局の所、現実の児童ポルノやら性犯罪やら人身売買に対しても十分な対応は出来ていない。それと一緒くたにして、同じ重さの犯罪として扱うとなると、本人の証言や難しい証明のいらない簡単に証明できる犯罪を検挙することに警察や検察が一生懸命になってしまうのは目に見えている。どこかの国の警察が、麻薬やら大麻やらのジャンキーを捕まえて検挙率や拘置所の稼働率を上げるのと大差ありません。そんなことでは結局目的は何ぞや、その前にやることがあるのでは、というところに話が戻ってきてしまいます。

正直、罰金刑ながらも地裁・高裁における(予想外の)有罪判決が出ていたのであまり過度な期待をしないようにしていました。当の本人が無罪判決を受けてほっとした反面で、失った時間や費やされた労力を考えると手放しでは喜べません。また、最高裁の判断が先例になるとはいえ、地裁・高裁レベルでの有罪の判断を考えると限界事例においては保守的な解釈を行う可能性が結構あることが容易に想像できます。最高裁まで徹底的に争ったのは結局の所有罪を得た場合に失うものが大きいからで、生活のかかっていない人が実際に争えるかはやはり微妙です。多少なりとも人権が機能しているスウェーデンでさえこれですから、裁判を受ける権利を権利として受け取る人が少なく、ましてや人権そのもののも認められにくい日本でいけるのかというのはやはり悩むところ。ともあれ一段落です。

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